薬の処方と健康保険改定

岐阜県医師会報 平成14年7月号 しょうてん

 今年4月のある日、見知らぬ男から、突然電話が入った。「自分は他の医院で、C型肝炎と言われ、A錠を出されて飲んでいる。こちらで、その薬を出して欲しい」と。しばらくして、テキ屋風の電話の主が、診察室に現れた。私は「残念ながら、その薬は現在当院に置いていない」と率直に答えた。肝炎に対してA錠はさほど有効でないと、私自身は考えていたからである。「そしたら、処方箋を出してくれ」という。「当院は院内処方のため、処方箋を出せない」と答えたところ、彼の血相がサッと変わった。患者診察用の椅子を蹴り上げ、「てめー、おれをなめとんのか!」。一瞬、警察に連絡しようかと、脳裏をかすめた。その時、彼の携帯電話が鳴った。幸い、彼はその電話で、気がまぎれたらしかった。出入りの薬の問屋さんが、偶然居合わせたため、その薬を発注することにして、その場はおさまった。持ってきた保険証から、有効期間は今年4月末までの1ヶ月間であること、発行日は当日であることがわかった。翌日、彼はその薬(1日6錠の14日分)を取りにきて、そそくさと立ち去った。5月に入り、この原稿を作成している時点で、取り寄せた薬の半分弱は残ったままである。

 今回の出来事をきっかけにして、強引な患者と、薬の処方についていろいろ考えさせられた。医療はサービス業に属するといわれるが、このような場合どうすればよいのであろう。患者の希望通りに薬を処方することは、医師の義務であろうか。仮にそうでないとしても、それはサービスであろうか。この患者は例外中の例外と思うが、睡眠薬を希望して取りにくる人は、他にも数人いる。先の患者にとっては、どこの病医院でも、すべての薬が入手できると思い込んでいるらしい。医療においても、他の客商売と同じで、客の望みはすべて満たされるのが当然だと考えているらしい。保険診療の仕組みや院内処方、院外処方の選択等は、一般の患者(利用者)から、かなり分かりづらい所もあるだろう。

 精神科の勤務医師にこの話をしていたら、同様な患者は結構いるそうだ。「この薬ではなく、前の担当医が処方した、同じ薬を処方してほしい」「薬の量をこれだけにしてほしい」等々。また最近、うつ病患者でもあった著者が書いたエッセイを、偶然読む機会を得た。著者は、「自分の希望する薬を、処方してくれる医者さえ近くにいてくれれば、それで十分」と書いていた。数年前に、岐阜県医師会が後援する『こころの健康講演会』に参加したことがある。テーマは薬物中毒、薬物依存であった。元中毒患者でもあった演者は自分の生い立ちと、鎮痛剤を一日何十錠も服用し、薬物中毒に陥る過程を、講演の中で切々と語っていた。彼が市販薬を購入していたのか、医師の処方によるのか、私はその詳細を忘れた。しかし、「自分の居場所は、結局、精神病院の保護室と、留置場しかなかった。薬の中毒から抜け出すために、自助施設を作ることが、自分の生き甲斐となった」と話したことを覚えている。

 この4月、再診料の変更、205円ルールの撤廃や主病名追加等の医療保険改定が行われた。その中で、薬の処方に関して、従来の14日という原則が撤廃された。なぜ無制限としたのか、私は疑問に思う。世の中が規制緩和の方向に向かっていることは承知している。薬の処方期間を無制限とすることは、表面上、患者の便宜が図られるようにもみえる。しかし、逆に考えれば、患者の細かな病状の変化を見逃すこと、薬の副作用等をチェックする機会を逃すことにもつながる。先に述べたような強引な患者もいる。薬の処方は、一つ間違えば、薬物中毒や社会的事件にも発展しかねない。この際再度、薬の処方期間には適切な上限を設けるよう見直すことを主張する。医師としては、真に患者の健康と社会の健全を考えて、必要最小限の薬を処方したほうがよいと考える。最後に、今回の強引な患者に、この論説を書くきっかけを与えてくれたことを感謝する。

 ところで、病気を治すのに役立つのは薬だけであろうか?その他の一つに、笑いがあろう。アルフォンス・デーケン氏はその著書『ユーモアは老いと死の妙薬』の中でユーモアの大切さを発見したのは、来日当初の言葉が通じない自分の人生で一番苦しい時期であったと、書いている。そしてユーモアには、自己風刺と自己発見という大きな役割があると述べている。日本におけるホスピスの先駆者の一人である柏木哲夫氏は、著書『死を看取る医学』のなかでターミナル・ケアにこそ、ユーモアが必要であると繰り返し述べている。先の強引な患者に対しても、怒り心頭に達した私にユーモアの心があれば、もう少し穏やかに済んだかもしれない。 KK