医療事故・医事紛争を防ぐために

岐阜県医師会報 平成13年7月号 しょうてん

はじめに

 ここ1、2年、新聞、テレビの報道において、医療事故や医療ミスという言葉にお目にかからない日はほとんどないくらいである。大きな社会問題になった医療事故として、Y大病院の患者取り違え手術がある。その他、麻酔事故、輸血ミス、処方、投与量の間違いに関する報道1)は、残念ながら日常的とも言える。 医療事故については患者、報道側の関心の高さに比較して、我々医師を含めた医療側のそれは必ずしも充分とは言い切れない。平成12年2月の岐阜県医師会主催の診療情報提供および医事紛争に関する研修会において、医師・弁護士である児玉安司氏の講演を聞いて、私は医療事故に対する予防の重要性を学んだ。またその後、県医師会がこの問題に重点的に取り組んでいることを知った。私自身は現在まで20年以上医師として働いた中で、一度のみならず医療上の誤りを犯したり、ひょっとすると医事紛争となりうる経験をした。自分の間違いが他の医師および医療関係者に共有され、医療事故を予防するための一助となればと考え今回、この問題を取り上げる。


経験1

 医師国家試験に合格した研修1年目のことである。私は名古屋にある約800床の研修指定病院で、約2ヶ月間麻酔科にローテート研修中であった。ある日、指導医の下で、開腹手術の全身麻酔の管理を担当するように指示を受けた。研修医は、麻酔機の配管接続等を準備することになっていた。その日もいつも通りに準備したつもりであった。手術中、開腹した患者の血液の色を見て、執刀医が突然に叫んだ。「オイ血がどす黒くなったゾ。おかしい!」と。その時、近くにいた麻酔指導医が、とっさに人工呼吸器をはずし、バックを手でもみ始めた。この間私には非常に長く感じられたが、ほんの数分間のできごとであったと思う。横たわっていた患者の血が鮮紅色にもどっていき、手術は無事終了した。後からわかったことは、排気用のチューブを、誤って吸入用につないでしまったのだ。もし低酸素血症から患者が植物状態になっていたら…。ゾーとする思いを胸に、術後私は恐る恐る患者を病室に訪ねた。患者が手術前と同様に、ごく普通に会話ができた時、私は安堵したことを今でも覚えている。


経験2

 大学病院勤務時代に、我々のグループはほぼ毎週、血管造影とカテーテル治療を行っていた。記憶が正しければ、総計では数百例から千例にのぼったと思う。我々の検査、治療対象は、出血傾向のある肝硬変症や肝臓癌の患者であった。通常は大腿動脈を穿刺し、検査後の圧迫止血には約30分を要した。ある年の暮れに、急に検査の患者が立て込んだ。年末の慌ただしい中、時間内ギリギリにやっと検査を終了した。自分としては、いつも通り充分止血したつもりであった。しかし、年明け早々に病院から電話がはいった。「検査後も止血が困難で、患者の足が腫れてきた」と。種々の処置を試みたが、結局、血管外科医に手術を依頼した。我々の説明に対し本人と家族が手術を同意し、さらに手術が成功したことは今から思えば奇跡的であった。


経験3

 開業後ほぼ10年経過した、比較的最近の日常臨床経験である。 その日は、平成10年2月の日曜日であった。午後7時10分ごろ、突然私の診療所の電話が鳴った。当時62歳の女性患者の夫からであった。「今日の夕方から、妻が頭を痛がっている」と。高血圧症等の診断名にて通院加療中であった本人が、一人で診察室の中に入ってきたのはそれから間もなくであった。構音障害や、明らかな麻痺を認めなかった。但し血圧は196/90と、いつもより高かった。ひょっとすると、くも膜下出血かと一瞬ひらめいた。しかし、今までに意識が全く清明な、くも膜下出血の例を経験したことはなかった。CTを持たない開業医としては、項部強直の有無を確認した。やや硬いという印象をもったが、まさかという思いで、一般的な高血圧にともなう頭痛と考えた。アダラートを舌下投与して10分ほど経過観察すると、血圧は144/86まで下がり、歩行も可能なため帰宅させた。ところが、8時過ぎに、夫から再び電話がはいった。「妻の頭痛が治らない。いま、生あくびをし始めた」と。私はくも膜下出血に違いないと即座に答え、患者宅へ自分の車で急行した。かけつけた時には、本人は畳の上に仰向けになり、尿失禁、嘔吐の跡も認め、意識朦朧状態であった。間もなく到着した救急車に同乗して、病院まで患者を運んだ。翌日幸い手術は成功して、後遺症を全く残さずに退院した。


考案

 自分の経験を振り返り、医療事故に関与する要因や、それを防ぐ方法にはどんなことがあるかを考えてみた。研修医時代の経験1は、一般に指摘されているように不慣れが誘因にあると考えられる。私が犯したと全く同じ麻酔事故が、新聞で報道されていた。他県の医師会において、医療事故を起こす頻度が高い研修医向けに、講演会を行っているという記事を読んだ。勤務医時代の経験2は、個人的には焦りが原因の一つと考えられる。それは中島2)によれば、無意識の行動におけるエラーに分類される。それと同時に、年末のために検査の依頼が急増したという、社会的圧力も背景にあると考えられる。米国の医療事故に関する最も有名なHarvard Medical Practice Studyでは、医療事故の発生場所として最も頻度が高かったのは、手術室で41%をしめていた。開業後の経験3は、例外的な出来事に初めて遭遇した場合であり、問題解決におけるエラーに分類される。私はくも膜下出血の誤診から、医事紛争に発展した例3)を読んだ。幸いミスが顕在化させずに、いずれも潜在的医療事故(今回、このような言葉があることを初めて知った)で済んだ理由として、他の医療関係者のバックアップがあげられる。経験1では麻酔指導医であり、経験2では他科つまり外科の医師であり、経験3では病院の存在であった。医療事故を防ぐ1つとして、医療組織におけるバックアップ体制の重要性を認識した。

 米国でも事故予防の点において、医療は他の産業に比し遅れていることが指摘され、医療事故が死亡原因の第8位と判明し社会問題となっている。4)大切なことは誰しも間違えることはあるという視点に立って、医療事故を防ぐシステムの確立である。それには懲罰モデルよりも学習モデル、インシデントリポートの充実、医療従事者間のコミュニケーション、定期的な討議と予防的対応の重要性が強調されている。


まとめ

 医療事故には、個人的な不慣れ、焦り、油断等の他に、社会的な問題も背景に存在する。今後更に、医療従事者間のコミュニケーションを良好にし、インシデントリポート等を通して医療事故を防ぐシステムを確立することが重要となろう。そのために、今年我々も地域医師会において取り組もうと思う。

引用・参考文献

  1. 1)山内桂子,山内隆久『医療事故』朝日新聞社.東京;2000.
  2. 2)中島和江,児玉安司『ヘルスケアリスクマネジメント』医学書院.東京;2000.
  3. 3)三輪亮寿『もしもあの時 医療過誤判例Q&A』医事出版社.東京;1996.
  4. 4)米国医療の質委員会,医学研究所『人は誰でも間違えるーより安全な医療システムを目指して』 日本評論社.東京;2000. K.K.